7月から8月前半にかけて、鳥栖の四阿屋(あずまや)のクライミング・ゲレンデでは、松井敏雄さん(昭42工)や池田祐司(昭57文)と顔を合わせると、「お盆は?」と、夏山の計画を打診し合っていましたが、ルートを何本か登って帰るころになると、「また連絡します」という具合で、なかなか決まらずに(なんだか北岳バットレスが有力候補のようではありましたが)日を重ねてしまっていたようでした。
四阿屋 初孫
「ようでした」というのは、僕は今年は祖父の初盆で、実家のある宮崎の延岡に戻らねばならず、アルプスは諦めていたからです(いつもは、夏の休暇が近づくと、日頃トレーニングもしていないくせに、芭蕉的な「そぞろ神の物につきて」といった心境に近づくのか、カッと日差しの照りつける岩稜とその上に広がる圧倒的な入道雲が、頭の片隅にちらついて、結局「とるもの手につかず」ザックを背負ってJRに乗り込むことになってしまうのですが)。池田には、「宮崎の比叡山だったら行けるんだけど」とは言っておきましたが(実家から車で1時間弱で着きます)、せっかくの長期の休みを近場で過させるのも気の毒なので、僕の夏山計画は今年は全くの白紙のままでした。
ところが盆休み直前に、池田から「比叡山に行きましょう」という電話がありました。何でも仕事がずれ込んだり、北岳バットレスの計画が立っていなかったりしていたようでした。僕の方としては渡りに船で、二つ返事で乗り込んだと言うわけです。
8月13日に祖母山の川上本谷を白岩・関・松垣・福留らと遡行した後、大分側から車で尾平トンネルをくぐって高千穂に抜け、槙峰から山の方に入り(高千穂−延岡間のバイパスが延びていて、以前は槙峰が終点だったのでわかりやすかったのですが、今回は通り過ぎてから槙峰への降り口に気づきました)、23時頃に比叡山の駐車場にテントを張って池田を待ちました。
祖母山 川上本谷
1時頃に池田と松井さんが隣でテント張っているのを、夢心地で聞いていました。
8月14日
起きると、前日の遡行と縦走のせいで、体がガタガタでした。薄曇りの下、比叡山の向かいの矢筈岳もうっすらとガスがかかっていました。天気を確認するためにつけたカーステレオのFMをバックにストレッチなどしていると、二人が起きてきました。松井さんも予定があって、アルプスに行くほどの日程がとれなかったために、ここに来たようでした。
この日のルートは比叡山一峰南面の「FYKルート(本官ルート)」としました。ところでこの日は気がかりなことが2点ありました。一つは、前日の祖母山一帯でかなり雷雨に降られたので、ここらでも降っていたに違いなく、壁が濡れているのではないか、ということ、もう一つは、空模様から察して、正午になる前に雨が降ってくるだろうということです。比叡山は壁の方は乾いていたのですが(後で聞いたら、鉾岳はこの日は濡れていたとか)、クライミングの準備が終わった頃に、案の定、小雨がぱらついてきました。僕は前日の雷雨でびしょ濡れになり、この上二日も続けて濡れるのは閉口だったので、一旦は「今日は遠慮しときます」と装備を解いたのですが、今日を逸したらそう滅多に登る機会もなかろうと思い直し、トライすることにしました。
雨が少し強さを増してくる中、登らないにしてもとにかく取り付きだけは確認しようと、一度登ったことのある松井さんが先導されましたが、結構わかりづらいものがありました。取り付きにはプレートが付いていました。FYKルートの1ピッチ目は5.10c(VII級)のスラブで、いざ壁に向かうと皆やる気が頭をもたげ、「とりあえずトップロープで1ピッチだけでも」と、ぱらついたり止んだりの小雨の中を取り付くことにしました。1、2歩登って、5.10a(VI+)くらいの一歩(僕らは、これが出来ないのは「問題外の外」と呼んでいました)があり、その次に5.10cのムーブと続くのですが、池田は限りなくテンションを繰り返した後に、なんとか食らいつきました。僕はスラブの5.10cに敗退してしまいました。松井さんは結構楽に登ったみたいです(ちなみに『岩と雪』163号、1994-4、pp.53-4のchronicleでは、5.10c A0 となっていましたが、松井さんと池田はフリーで登ってしまったようです)。なんだか天気も持ちそうで、困難なピッチは池田のリードで、結局このルートを登り切ってしまうことになりました。1ピッチ目の上部のちょっとしたハングのあたりがこれまた厳しく、池田と僕はA0を使って越えました。雨が完全に上がると、今度はじりじりと露出した肌を焼く激しい日差しです。特にクレッターシューズの黒いゴムの部分は、耐えられないくらいに熱くなっています。たまに吹く涼風だけが、唯一の救いでした。2、3ピッチはIV級(5.5)で、上でジッヘルをしていると、松井さんは裸足で登ってきました(クライミングシューズはかなりきつくて足が痛いので、ジッヘル時に脱いでしまうことはたまにありますが、脱いだまま登ってきたのは始めて見ました)。この辺りのシビアなルートを登っていると、IV級はただの岩稜のように思えてしまいます(しかし易しいピッチはやたらにピンが遠いので、油断は禁物ですが)。4ピッチ目は5.10b(VII-程度)のかぶり気味のフェースで、高度感もあり緊張の連続でした。ホールドはしっかりしているものの、縦ホールドだったりと、奇妙な体勢を強いられ、池田と僕は思わずA0になったりしました。5ピッチ目で少し右にトラバースして(5.5、IV級くらい)、6ピッチ目は従来のトポとは異なった、新たに付けられた右よりのラインをたどりました。従来の左のラインでもよかったのですが、リードの池田はシビアなラインをたどらないと気が済まないようでした。一カ所、被ったところを越えるのが難しく感じました。池田はマントリングで(こっちの方が難しい)、僕と松井さんはレイバックで越えました。この、僕たちが登ったFYKルートは、隣のルートと近接している箇所が多く、ルートが入り乱れているため、打ってあるRCCボルトは全て白く塗装してあり、親切にもルートの途中には矢印のペイントで道案内もされていました。ただし、4ピッチ目の終了点からのトラバースの箇所(5ピッチ目)は、特に指示がないので、間違えやすいと思います。
終了後は、(A0があったにしても)VII級を果敢にもリードした池田の健闘をたたえ、20分程度で登山道を下山。しばらく休んだ後、松井さんと池田の二人は、庵鹿川へ向かい、僕はそのまま、法事のために延岡の実家に戻りました。
8月15日
僕は暗くなる前に庵鹿川へ到着しました。松井さんは帰られたばかりで、池田をはじめ、冨永さんのご一家と娘さんの友人、オーナーの一人の工藤利光さんがいました。ビールを飲んだり法事の時に目をつけていたご仏前のメロンや巨峰、娘さんの友人のおばあちゃん家で採れたというラグビーボールの形のよく熟れたスイカなど食べながら、囲炉裏を囲んでの話に花が咲きました。池田が中国で食べた、メロンなど足元にも及ばないという「はみ瓜」の話には、涎が出そうでした。
8月16日
初日の日差しの厳しさに懲りたので、涼しいうちに取り付くことにしました。冨永さん、工藤さんのパーティー先行で、比叡山一峰南面に工藤さんらの開いた「第三スラブルート」へ向かいました。長友、池田の順で釣瓶でトライしました。このルートは1、2ピッチがVI級で、しっかりしたボルトが打ってありますが、ちょっと遠いところもあり、フレンズのNo.1〜2を一カ所ずつ使えばかなり安心です。1ピッチ目の核心は中間部の左へのトラバース、2ピッチ目の核心は出だしのハング越えですが、どちらもリーチがあれば楽に抜けられます。僕たちは寧ろ、核心の前後のムーブの方が難しく感じました。上部は易しくなるのですがピンがほとんどなくて(3ピッチ目のハング越えの手前は20メートルくらいのランナウトがあり、最終ピッチにいたっては、ノー・ピンです)緊張しました。
一本登って結構日差しがきつくなってきたので、梨などかじって涼をとると、庵鹿川に戻る冨永・工藤の両氏と再会を期し、正午前に福岡への帰途につきました。途中、鳥栖を通過するので、四阿屋に寄ることにしました。「まさか松井さんは来てないよね」「夕べ帰福したばかりで、今日来ていたら、大笑いだよ」などと言いながら、中島みゆきの「狐狩りの歌」などを合唱しつつ陽が傾いた頃に駐車場に着くと、シカゴ・カブスのステッカーを貼った見慣れたワゴンが止まっていました。僕と池田は顔を見合わせて、一瞬の沈黙の後、「松井さんも好きだねえ」と大笑いをしてしまいました。この後、松井さんに同様のことを言われてしまったのですが。四阿屋では、「初孫」をリードしたり、「ミスター・ロンリー」をトップロープで挑んだりして、蜩の声を聞きながら、充実した夏の休暇は終わりを告げようとしていました。
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