2004 牛心山(後半)
2004/08/30(月)
後半の入山開始。長友、生田夫妻、池田。ベースには、大内、長塚、室屋、須貝が待つ。途中の市場で買いだし。ベースのメンバーのため、新鮮な果物なども求める。
通訳の史さんと
ハミ売りを求める生田夫妻
ピンプン溝と双橋溝の分岐の辺りで昼食。巴朗山の4523mの峠では、高度順応も兼ねて、ゆっくりと花の写真を撮る。日隆で2時間程の車待ち。その間に日隆の町を見て回る。小さな学校の校庭では子ども達や若者達がバスケットボールを楽しんでいた。ここは四姑娘山のベースの町で、私たちのエージェントの李慶さんが四姑娘山のトレッキングに先鞭を付けたのだが、その後、観光資本がどっと入って、商業主義的な観光に変化してしまったとのこと。一番登りやすい大姑娘山は毎年日本からも多くの人が登りに来ている。そのため、日隆はあっという間にホテルが林立し、成都の街中のホテルよりも宿泊料が高い。
王さんの車が迎えに来たので、ゲートをくぐって双橋溝へ。2700mにある王さんの民宿で夕食。それから紅杉林まで車で行き、小雨の暗闇をベースまで歩く。ベースに入ったのは23時半だった。
峠の出店で。ハリネズミ。
峠では焼き鳥などを売っている。
この高度で、簡素な小屋掛けで暮らしている。
峠のチベット仏教のお堂。
2004/08/31(火)
雨のため停滞。池田君は四川料理の菜種油や山椒や唐辛子に胃腸が疲弊したためか、調子が悪く、頭痛、腹痛、下痢を訴えている。室屋、須貝の両君は、近くの滝の裏の洞窟探検に。ちなみに私が下山している間、ベースにいたメンバーは、紙で麻雀を作ったり、牛心山の北側のコルを踏査したりしていたらしい。コルからは数分のガスの晴れ間に、プタラ峰の岩峰の屹立が望めたとのこと。パンダ保護公園のお土産のパンダトランプ(箱に「パニダ・トテンプ」と印刷されていたのが大受けだった)で時間を潰したりする。
紅杉林から仰ぐ懸垂氷河
ベースにて。須貝、室屋、李慶、大内、生田夫妻。
2004/09/01(水)
天気が回復せず、気圧も横ばい状態。体調不良の池田は一旦下山し、日隆あたりの病院で点滴と手当を受けることになった。昼まで月餅にお茶やビールでくつろぐ。しかしいつまでもテントでうだうだしてるのも芸がないので、大内、長友、生田真也、生田愁子、長塚、室屋、須貝で、昼から牛心山の新たなルートの踏査に。上に残した前進テントまで登り、そこから山の弱点を探って、歩いて登れる最高高度を目指した。岩場が出てきたときのために、クライミング装備も持っていく。
鹿耳沖塘を登っていく。
トリカブトの仲間。飛燕草も咲いていた。
上のベースからの牛心山。
上のベースに迫るヤクの群れ。
ベースから斜面をアタック。
黄色い高山植物。
珍しい植物が多く、大内さんは興奮気味。
登る程にガレが急に。
草付きの急な斜面を登り、岩壁を右に大きく巻いて、草付き、ガレ場などを詰めて行った。特に大塚さんは先頭を切って、どんどん登る。エイベックスがスラブ地帯を駈けている。4800m近くの、岩壁に遮られたところで、登高は終わる。そこからは生田夫妻と長友がロープを付けて、試登することになった。生田真也さんが(まさか今日クライミングになるとは思っておられなかったようで、昼までビールを飲んだりされてたのだが)リードして、1ピッチを登る。ざらざらのガレを横切り、岩溝状を、カムをセットしながら40m近く辿る。岩は濡れて、浮き石も多く、風化した砂の乗ったスタンスがいやらしい。最後がちょっと登りにくい。真也さんは岩壁にハーケンを打って確保していた。長友が電動ドリルでリングボルトを打ち足した。そこから2ピッチ弱のガレの斜面が続き、垂壁が遮っている。垂壁は左が低く、頂上がある右に行く程高くなる。ガスでよくわからないが、どうも左から巻くと、少しの垂壁登りで稜線に飛び出せそうでもある。稜線に出ても、今、下からガスを通して見えているのは頂上ではなくヘッドウォールの可能性も高い。あと何ピッチだろう? 2,3ピッチのようでもあるし、まだまだ登らないといけないようにも思えた。
もう時間も17時頃で、とにかく懸垂下降で降りた。そこからアプローチを逆に辿って、20時半頃に下のベースに戻った。ヘッドランプをぎりぎり使わなくてすむくらいの夜の帳がベースを覆っていた。
ベースのメンバーの話だと、テント傍の流れが増水して、キッチンテントは水に浸りそうだったとのこと。
登攀準備。
果敢にリードする生田真也さん。
2004/09/02(木)
小雨のため、昼までベースで待機する。14時半頃に雨の止み間を待って、アタック隊は上のベース(4300m)に移動する。生田真也、生田愁子、長友、室屋、須貝のメンバーで出発。二時間後には、寄ってくるヤクを追い払いながらテントに入る。デポしてあったプロパンガスでホットジュースを作ったり、食料をちびちび食べながら、真也さんのホラ話や山の話で時間を過ごす。スントの時計を気圧計モードにして気圧変化を読むが、相変わらず全く変化がない。夕食はジフィーズ。夜には激しい雨がテントを叩いていた。
ベースにて。
牛心山。
更に近づいてみる。
再度、アタック開始。
冷気から身を守っている保温植物。
上のベースへ。
2004/09/03(金)
結局、雨はあがらず、8時頃に生田夫妻は自分の登攀装備を背負って下山を行った。残ったメンバーは、回復した池田がカム類を持って登ってくるのを夕方まで待ち、彼が来ない場合はカムもパートナーも不足なので、撤収することにした。午前中はトランプをして過ごす。時々、ガスが切れ始めたように見えたが、しばらくすると辺りはガスで覆われてしまう。しかしよく考えてみれば、池田が今日中に上がって来るという保証はない。「10時までにガスが上がれば、アタックしよう」「11時までに・・・」と出発時間をずらして待機していたが、天候は相変わらずだった。うずうずしてきたので、11時半頃、アタックをかけることにした。カムはキャメロットの4番が一つだけしかないが、ハーケンとボルト、そして電動ドリルが私たちには残されている。一昨日のアプローチを迷わずに辿り、取り付きに着く。
ガスに煙る兎耳峰。
懸垂氷河。
兎耳峰の氷河のアップ。
氷河の左にも道があるらしい。
しかし、雨が降りはじめた。ツェルトは持ってきてなかったが筒状のレスキューシートがあったので、切り開いて岩に掛け、中に入って雨を凌ぐことにした。さっき出てきたテントが、行者ニンニクの原っぱの中に小さく見えている。室屋、須貝は初めての経験らしかったが、隙間からしたたる滴に落ち着いて耐えていた。雨はなかなか上がらず、クイズでも出して気を紛らわせることにした。
「ここに双子の兄弟がいて、一人はいつも嘘をつき、もう一人はいつも本当のことを言う。兄はジョン。弟の名は不明。どちらか一人に、イエスかノーかで答えられる質問をして、どちらがジョンなのか見破りたい。質問は英単語3語以内。なんという質問をしたらいい?」
「う〜ん、あなたはジョンですか、かな?」
「その答じゃぁ、イエス、と答えた方がジョンなのか違うのか、わからないよ」
そうこうしながら小一時間、4800mの冷たい雨に耐えていた。
「三時までに止まなければ降りようか」
「今降りてもいいですよ」
そんな会話を交わしながら、ふと、テントの方を見下ろすと、二人の人影がゆっくりとテントに向かっているのが見えた。
「あれ、ヤクじゃないよね」
「どれですか?」
そのうち鋭い指笛が響いてきた。銀色に輝くシートが目に入ったらしい。
「池田だ!」
こちらもホイッスルで応えた。その頃にはガスは相変わらずながらも雨はあがっていた。
「行くか!」
私たちはシートを畳むと、取り付きでハーネスを付けてロープを結び合った。
一昨日に生田真也さんがリードした1ピッチ目は、途中にキャメロットを一個だけ使った。濡れているので緊張する。ビレイ点で二人がフォローしてくるのを待ち、更に未踏のガレ場を詰めることにした。左の垂壁の低くなった方に登っていく。途中、露岩にボルトを打って、ビレイポイントにする。更にガレを詰め、垂壁の基部を左にトラバースしようとして、足が止まった。大きな逆層の段差になっている! 段差の入り口にボルトを打って、身を乗り出すが、トラバースは結構渋そうだ。ボルトを支点に一度10mほど懸垂下降して下の濡れたスラブに降り、それを右上方に登っていく、という手もあるが、帰りにそのホールドの乏しい10mを登り返すことになり、ほぼ初心者の二人を、無事に連れて帰る自信もない。長い間思案していたが、結局引き返すことにした。一番有効なラインは、垂壁正面の、50m近い凹角状を登るラインのようだった。しかしこちらも濡れていて、6級以上はありそうで、やはり二人を連れては行けない。時間も遅くなっていたので、ガスで下降が面倒にならないうちに降りることにした。
取り付き付近からの牛心山。
1ピッチ目をフォローする室屋と須貝。
2ピッチ目ビレー点。
前途に立ちはだかる壁。
左の稜線方向。渋いトラバースが。
取り付きまで懸垂下降し、ガレ場を下っていると、ガスの中から指笛がした。登ってきていた池田と合流する。
「なかなか降りてこないので、今日はビバークかと思ってましたよ」
「いや〜、そんな根性ないよ。それにたぶん明日も雨だろうし・・・」
テントに戻ると、お湯を沸かして温かい飲み物を口に含み、荷物をまとめて下のベースに下った。天気さえよければ、多分、一番易しいルートが引けていたはずだったのだが、こればかりはいかんともしがたい。
この日、生田夫妻と長塚さんは、通訳の史さんなどと一緒に、成都へ戻った。
2004/09/04(土)
天気は好転しそうもなかったので、残りの時間を有効に使おう、と大内さんが提案していた。アタックよりも、付近のトレッキングにあてよう、勿論、好転したときのためにアタックの準備はしておこう、という計画だ。デポを回収しベースを撤収して、このへんの村長の王さんがやってるロッジに移動することにした。そこで一昨年は食事を採り、今年の冬は大内さん達がアイスクライミングのベースに泊まっていた。
ガスが晴れないので、昼までお茶をして、昼過ぎから、デポの回収に向かうことになった。李慶、室屋、須貝は上のベースの撤収、長友、池田は「夏の雪豹ルート」の取り付きのデポの回収だ。私たちは30分で紅杉林まで降り、丸木橋を渡り、谷筋を2時間詰めて、取り付きに。途中、岩のブッシュ登りなどが出てくるので、今回行動らしい行動をしていない池田は「初めて手を使って登ることができた」と、少し嬉しそうだった。
取り付きが見えてきた。クラックになった岩陰に、僕らのデポが・・・ない! 急いで駆けつけたが、ロープもカムもハーネスもハンマーも、それからそれらをぶら下げていたシュリンゲとハーケンも、きれいさっぱり無くなっていた。「夏の雪豹ルート」の1ピッチ目のフィックスロープも無くなっている。「帰りが楽になりましたね」と池田は冗談を言うが、私はちょっとショックだった。
紅杉林に降り立つと、土産物屋の一角で、イタリア人のプロガイドだという二人連れが、ポーター達と一緒に雨宿りをしていた。中村保さんの地図と、一昨年の私たちの「夏の雪豹ルート」の記録を大内さんが「 Japanese Alpine News 」に書いた記事を頼りにやって来たとのことだった。
「僕たちのデポは無くなっていた。何か気づいたことはないですか?」
と尋ねると、
「知らない。君らのボルトキットは余ってないか? 私たちのギアの入ったプラスチック缶も、成都で紛失してるんだ」
と答えた。
「天気が悪いけど、好転するだろうか?」
と言うので、
「ずっとこんな感じだよ。僕の気圧計も横ばい状態だ」
とスントを見せると、彼も同じものを腕にはめていて、
「そうだね」
と頷いた。
夜は残ったメンバーとエージェント側と全てのスタッフが一つのテントに集まって、ベースでの最後の夜を記念しての宴会となった。李慶の手製のクコ酒はとても美味だった。
ガスにけぶる牛心山。
ベース最後の夜の日中スタッフ全員での宴会。
2004/09/05(日)
小雨の中、午前中に撤収を行った。下からポーター達が来てくれた。紅杉林で昨日のイタリア人パーティーに再会した。中国の様子がわからずに無許可で来ていたので、李慶を通して便宜をはかってあげた。ギアを失ったことも、李慶が航空関係の仕事もしてるので、捜索の手続きを手伝った。それから王さんの軽自動車になんと10人も詰め込んで、ロッジに向かう。山野井さんのテントは既になく、一足先に帰国しているようだった。ロッジの手前の人参果坪という湿原で降りて、景色を楽しみながら歩く。僕らが来た紅杉林の方は、どんよりとした深い霧に沈み、まるで魔物の巣窟のように見えた。「あんな所に何日もいたんですねぇ」だれかがしみじみと言った。
イタリア人パーティーと。左から長友、Pauli Trenkwalderさん、大内さん、Renato Botteさん。
「あんなところに・・・」というくらいどんよりした紅杉林方面。
人参果坪
双橋溝渡暇村
「双橋溝渡暇村」という名のロッジに着くと、先行していたエージェントのスタッフが、庭で濡れ物を広げて乾かしていた。サーチというかわいらしい黄色い果実を付ける木から作ったサーチ茶を振る舞われ、落花生とひまわりの種を囓る。端の部屋はテレビがあって、衛星放送が受信できる。そこに集まって、カンフー映画などを観たりした。さすがに広大な中国だけあって、同じ中国語なのに離れた地方では通じなかったりする。番組も中国語でやっているが、更に別の地方の中国語の字幕が流れていた。
トカゲ干ししている高偉。
お向かいの家。
2004/09/06(月)
昼からロッジの向かいの50mくらいのスラブと沢を見に行く。入り口近くで、傘を差して糸を紡ぎながら羊を番をしている女性がいた。
スラブは池田と基部まで上がったが、少し登るとほとんどボルト連打になりそうだった。それに濡れていて脆そうだった。どうやらここは石切場のようだった。沢は暫く遡っても、10数mの小さな滝が一つあるきりで、滝らしい滝はなかった。相当上部まで行かないといけないらしかった。
それから大内さん達と別れ、池田と二人で人参果坪へ。「Climbing」誌No.219(March 15, 2003, pp.68-71)に
「Vail, Colorado: 20 climbs, 60 climbers. Ouray, Colorado: 100 climbs, 500 climbers. Shuanqiao Vally, China: 125 climbs, 4 climbers.」
と載っているように、この双橋溝沿いの道路から見えるだけでも、100以上の滝があるようだ。それらを「おおっ、あそこにも滝が!」と賛嘆しつつ見上げながら、人参果坪の木道を散策したりする。
お向かいの息子、ヤンサンワくん3歳。
意気投合する二人。
帰ると向かいの家の子どものヤンサンワ君(3歳?)と遊んだりテレビを観たり。夕食後は、エージェントを交えて中国ジャンケンで盛り上がった。四すくみ制で、虎は鳥よりも強く、鳥は虫より、虫は杖より、杖は虎より強い。
「ダンダンダンダン、タイガー!」
「ダンダンダンダン、スティック!」
などと叫びながら、手で虎とか杖の形を作る。負けたら罰ゲームで「あの」江口醇を飲まされた。
2004/09/07(火)
長友、室屋、須貝は、デポの盗難の件で、李慶と共に昼から日隆の交番に。手続きが終わると、お巡りさんと記念写真を撮った。大内さんと池田は、近くの尾根に登ったり、付近の民家を訪れて、お茶をご馳走になっていたらしい。午後に皆が戻ってくると、王さんの家の竈を囲んでお茶をした。双橋溝周辺の地名の由来など伺ったが、幾つかは最近になって観光業者が勝手に名付けたものだった。李慶は
「今、私たちは歴史を作ることが出来る」
と言っていた。その意味は、例えば今、新しい地名を付け、それに見合った伝説を創作して広めれば、そのうちそれが勝手に一人歩きして「正しい歴史」になってしまい、もともと伝説など無かったところに伝説が生まれ、また、古来からの伝承があった場合は逆に駆逐されてしまうことが方々で起こっている、という嘆きだった。
髭剃り「使用前」の室屋。
「使用中」の室屋。
王さんにブラックコーヒーを勧めると、一口啜って、
「プー・ハオ・ツー」(不味い)
と、妙な節回しで叫んだ。この節回しが皆に受けて、私たちは事ある毎に
「プー・ハオ・ツー」、「ヘン・ハオ・ツー」(とても美味い)、
と言い合った。同じ節回しで、「ヤン・サン・ワー」(向かいの男の子の名前)とか、「サラ・マン・ダー」(須貝のこと。マンダーは大食いのことらしく、それをもじった洒落)と叫んでは笑い合った。夕方、公安のお巡りさんが刑事を伴って、盗難の実地見聞に来た。王さんの車に李慶と乗り込み、パトカーについて紅杉林に戻る。
帰って夕食を済ますと、双橋溝最後の夜ということで、庭では羊の丸焼きの準備が始まった。暗くなってから付近の人たちがぞろぞろとやってくる。女性は民族衣装で着飾っている。スピーカーから音楽を流し、羊を囲んで皆、踊り始めた。酒を勧められ、民族衣装を着せられ、何時間も踊り続けた。皆が踊り疲れた頃、今度は日中歌合戦が始まった。お互いに歌詞の意味は分からないが、とにかく声を張り上げて交互に歌を披露していった。地元の人たちは歌が上手い人が多く、特に若い女性の透き通るような高音の歌や男声の深い声には一同聞き惚れていた。
2004/09/08(水)
朝からバーラン山の峠を越え、貝母坪(バイモヘ)の草原を通り、成都へと戻る。大成賓館に落ち着くと、夜は下町の地元の人の行く店で、タニシ、ザリガニ、ウサギの頭、豚足などを食べる。
2004/09/09(木)
三星堆(第一展示館が開いていた)、中心街、変面劇の観光。→
成都観光
参照。
2004/09/10(金)
早朝、福岡組の長友、池田は、昼からフライトの関東組とホテルで別れを告げ、帰国の途に就く。
一つ前のページに戻る
|
山行記録へ
|