2004 牛心山(前半)



2004/08/20(金)
 福岡空港から庵鹿川のメンバーと、上海経由で四川省の州都、成都へ。人口700万人以上の大きな街だ。大内尚樹さん率いる関東組は数時間前に既に着いているはずだ。夜に着いたが、エージェント「雪豹体育探検公司」の迎えがなかなか来ない。タクシーの客引きの女性が沢山たむろしていて、待ちぼうけの私たちを心配してくれる。中には、自分の携帯電話を差し出して、ホテルやエージェントに電話しろ、と勧めてくれる人もいた。しかし悲しいかな、ホテル名もエージェントの電話番号も誰も確認してきていなかった。携帯をお借りして一昨年泊まった「ラサ・ホテル」に電話しても、「オーウチなんて日本人は泊まってない」との返事。嗚呼、ここで野宿か? と思っていたら、やっとエージェントが。出口が変更になっていて、お互い違う場所で待っていた。
 やっと「大成賓館」という成都のほぼ真ん中にある人省大の隣のホテルに投宿。それから大内さんら関東組の一行と合流して、夕食を食べに出る。唐辛子と山椒の辛い辛い四川料理の洗礼を受ける。
大成賓館
途中の市場

2004/08/21(土)
 ホテルに迎えに来たエージェントの車で、ピンプン溝へ向かう。途中の市場で食料を買い込む。庵の方々は、酒の肴を買う。桃や梨やハミ瓜も買う。
 成都を流れるミン江をさかのぼる。長江の大きな支流である。数え切れない程の観光バスとダンプが途切れなく交互に流れてくる。観光バスは世界遺産の九塞江を往復している。「雪豹体育探検公司」の李慶さんが「日本人も毎日6000人は九塞江に入っている」と言うので、「毎年、の間違いでしょう?」と聞くと、「いや、毎日です。総計二万人の人が毎日入ってます」との返事。さすが「白髪三千丈」のお国柄、表現が大げさだなあ、と思っていたら、僕たちが通過した時間だけでも大型バスが後から後から続いていて、少なくとも百数十台とすれ違ったようだ。ダンプの方は、ダム工事や高速道路工事のため。「大きなダムを造っています。でも、中国は戦争を放棄した国ではないので、もしそのダムに爆弾を落とされたら、成都の街はいっぺんで全滅ですね。それから、都江堰(とこうえん)という、今でも役に立っている2000年前のダムがあるんですが(これも世界遺産)、これがよくできていて、砂が堆積しないような構造になっています。でも上流にダムが出来ると、流れが変わり、砂に埋もれてしまうかも知れません。ある専門家はそのことに抗議して自殺したりして、大きな社会問題になっています」とのこと。今走ってる道路はダムに沈むので、上の方に高速を引いている途中だった。成都からしばらくは、石灰岩地帯だ。「あの山は」と李慶さんが大きな山を指さして言った。「全部、石灰岩です。オーストラリアのコンクリート会社が、丸ごと買いました」
 映秀という町で昼食。四川料理は旨いんだけど、やっぱり山椒が利きすぎだ。

 車はどんどん高度を稼ぎ、3446mのピンプン溝の入り口に到着。雨が降っている。ここでテントを張るのか、と思うと憂鬱だったが、「上海子遊人接待中心」(上の湖の旅人をもてなすセンター、という意味)という建物で雑魚寝できることになった。ここでマットを敷いて夕食を食べ、庵の吉村さんが日本から持ってきたウナギの蒲焼きや、途中の市場で鳥井さんや石橋さんが買ったアヒルの丸焼き、豚を湯がいたものなどを肴に、お定まりの飲み会。お酒は庵の方々が免税店で買ったシーバス・リーガル。
石塔で果物を買う石橋氏
上海子遊人接待中心

 ところが初日にして早速トラブル発生。私たちは、おそらく外国人では初めての峠を越えて、ピンプン溝から双橋溝へ入る予定だったので、ポーターは、峠の向こうの双橋溝の村人を頼んでいた。一つには、私たちの行動のベースは主に峠向こうの双橋溝だということと、二つ目には、峠はちゃんとした道もなく迷いやすく、エージェントも行ったことがなかったので、そこを越えてきた人たちだと、迷うこともなく案内してもらえるだろうということで、頼んだわけだった。そして彼らは既にこちら側に来ていた。ところがこっち側のピンプン溝周辺の村人が、「峠からこっちは俺たちの縄張りだ。俺たちを使ってもらおう」と、双橋溝の村人を追い散らし、雨の中で泊まる場所も与えられない有様だった。また、三倍ほどのポーター料も要求してるという。このトラブルを解決するために、大内隊長と李慶が、麓の公安警察まで行くことになった。
 彼ら二人が帰ってきたのは、夜中の2時過ぎくらいだったろうか。後で大内さんに聞いた話では、「我々は中国の素晴らしい自然と友好的な人々を紹介するために、銀行の理事長、NHKのカメラマン、朝日新聞の記者、大学の教授などで組織された隊だ。ところが、このようなトラブルが起こっている。これは遺憾な事態だ。同じリンゴを買うにも、一個20元と一個60元では、安い方を買うに決まっている。誰を雇うかの決定権は我々にある」などと訴えて、うまく解決したようだった。
雪豹体育探検公司の李慶氏
いざ、ピンプン溝へ

2004/08/22(日)
 ポーター・トラブルは、双方に遺恨を残さないように上手く処理して、さっそく、ピンプン溝を上流へと歩く。雨模様で、ガスがかかって山が見えない。日程も、当初の計画では既に3700m辺りに進んでるはずだったのに、まだ入り口なので、予定していた両岸の未踏ピークの偵察は中止になった。歩き始めてしばらくして、関東組の長塚さんが、風邪のためにリタイア。一度下山して、病院で看て貰い、双橋溝の方から再入山するとのこと。穏やかな流れに沿って、林や草原を歩く。
ここら辺りにはバラの原種が多い
ピンプン溝の入り口付近
昼頃、3800m地点で、ポーター達が、「ここから先にはいいテント場がない。今日はこの辺で泊まって、翌日、峠直下の安定した所で泊まり、翌々日に峠越えをすべきだ」と、先に行くのを渋る。私たちとしては、もっと高度を上げて、翌日一気に峠を越えたいところだったが、どうしようもない。おそらく、日数が増えるとポーターの日当が増えることと、高度を上げると彼らが野営するのに必要な薪が得られないことが、渋っている原因ではないかと考えた。
 ともかく雨の中、ピンプン溝沿いの草原にテントを設営する。「雪豹体育探検公司」が新調したテントは、大きなかまぼこ型で、両脇に二人ずつがゆったり眠れる寝室セル、中央には荷物を置いたり食事をしたりできる空間がある。ただし、強風には弱そうだった。これを私たちメンバーのために三張り設営し、他に、調理テント、エージェント用のテントを張った。ポーター達は、少し離れた林の中にビニールシートで雨よけを作り、傍にたき火を焚いて、そこで寝る予定。
川沿いのテント場
左から、川合、李慶、石橋、多田の各氏

 偵察予定の未踏ピークはガスに隠れて、全く見えない。昼からすることもないので、ポーター達のたき火を訪れた。小雨の中、たき火の傍でトランプをやっていた。お茶やタバコを貰う。ポーター達との付き合い方は、結構気を遣った。例えば日本のタバコを何カートンか持ってきていたが、一箱ずつ配るのはまずい。気前がよすぎるのも、彼らの生活を変えてしまう。大内さんは、札ビラを切る最近の観光者の態度を批判してこう言った。「金は人の暮らしを変えてしまう。自分が幼い頃も、仲良くしていたお姉さんが、パンパンになって、GIにしなだれかかっていた。でもその目は、このGIのポケットの中から財布を抜け、と合図していた。金は両刃の剣で、人を幸せにもするが、人の心を荒らしもするんだ」。
たき火にむせる、左端三沢氏、右端大内氏
雨の中、トランプに興じるポーター達

 夜はカレーだった。高度のせいか、頭が少し痛い。夜も寝付きが悪かった。夢をよく見たので、少しは眠れていたのだろう。夜中、小便に五回ほど起きた。来る前に鹿屋体育大学の低酸素室で教わった腹式呼吸で、SpO2(血中酸素濃度)の値を上げるように心がける。この山行中、鹿屋体育大学の山本先生からお借りしたパルスオキシメーターで、皆の血中酸素濃度の高度と順応による変化を記録していた。
偵察予定の岩峰群
・・・は、霧の中


2004/08/23(月)
 頭の痛みが消えていた。テントを撤収して、雨の中、峠に向かう。途中、ポーター達が「いいテント場はない」と言っていたにもかかわらず、お誂えの場所を幾つか通過する。林、湿原、と過ぎて、踏み跡は登りにさしかかる。
李慶がダイオウの茎を剥いて、「食べろ」とすすめてくれる。酸っぱいが乾いた喉には嬉しい。そのうち踏み跡もなくなり、道を失ってしまう。道を知っている重い荷を背負ったポーター達を待つ。それから彼らの後に従って、低木や草の尾根道をひたすら登る。今日は峠の直下で幕営の予定だったが、ポーター達との交渉によって、一気に峠を越えてしまうことになった。高度が上がるに従って、草とガレの斜面に変わってくる。ガスがひどいので、はぐれないようにメンバーの距離を保ちつつ登る。そのうちに、草も途絶え、大きな岩が重なって行く手に広がってきた。大内さんは装具を付けた足をかばって歩くため、岩だらけの登りは困難なようだった。庵の鳥井さん、関東組の吉田君も高度障害で進みが遅くなる。早稲田の学生、須貝君と室屋君はけろっとして元気だった。
ブルーポピー
お花畑を踏み分けて登る

 夕方五時頃、やっとガスに霞む4768mの峠に着く。ここを越えるのは、外国人ではおそらく私たちが初めてではないだろうか。傍の斜面には残雪が残っている。一息入れて、ガレ場を延々と下る。高度障害のメンバーはペースが上がらない。
最後のきつい登り
ようやくたどり着いた、初めての峠!
峠のポーターとメンバー
厳しい下りが始まる

 左手に牛心山の山腹が見える。しかし頂上はガスに隠れている。眼下はるかに、鹿耳沖塘の林がカーブを描いて尾根に消えている。更に急な草の付いた尾根を下り、ガレ場をトラバースする頃には、雨とガスに加えて、夜の帳が降りてきた。一刻も早くテント場に着こうと焦りつつも、遅れがちなメンバーがはぐれそうなので、一行は少し殺気立ってきている。行者ニンニクの草原に、先行したポーター達によって既にテントが張ってあるのだが、暗くてガスっていてどこなのか見当が付かない。ヘッドランプをかざし、大声でコールしながら、テントの場所を探す。足元は湿原状態で、泥だらけだ。
 夜の八時半、真っ暗な中で、やっとテントに着く。ぐちゃぐちゃの泥の上に張られている。しかし一張りしか張ってないので、まず庵の方々に入っていただき、雨の中、ずぶぬれになりながら、もう一張り設営する。行者ニンニクの上で、下地は穴があったり岩があったり傾いていたりするが、とにかく落ち着くのが先だ。高度は4300m。
 簡単な夕食を済ませ、寝袋に入る。しかしここでも私は殆ど眠れなかった。

2004/08/24(火)
 小雨の中、撤収を行う。
朝の幕営地
オキシパルスメーターと酸素発生器を使う鳥井氏。横に大内、石橋氏
昨日越えた峠。中央の雪渓辺り
鹿耳沖塘。切り立った崖に湿原が広がる
登山活動の前進ベースとして、一張りを、少し離れた水の来ない丘の上に張り直す。ここにプロパンガスと食料を残し、一行は紅杉林に向かって、降りていった。踏み跡すらない行者ニンニクの斜面を下り、流れに靴を濡らし、林の中へ下る。スローペースで二時間ほど下った、草の生えた所に、幕営地を定める。4000m地点。一昨年、私たちがベースを張った場所のすぐ傍だ。雨は相変わらず降り続く。体調不良の鳥井さん、川合さん、吉田君が、ひとまず下山する。下の民宿のような所で休養をとり、必要なら更に下って病院で看て貰うことに。この日もよく眠れなかった。ここ四日間、合計睡眠時間は六時間くらいだろうか。

2004/08/25(水)
 天気がよければアタック開始、ということで五時起床だったが、相変わらずの雨。スントの腕時計の気圧計も、数値が変わらず、好転する兆しはない。朝食はいつも、味のないお粥とホットケーキ。お茶漬けをかけて粥をすする。朝食が終わり、することもないので再び横になると、少しは眠れた。午前中は酒を飲んだり(主に庵の方々)、お茶にしたり。酒は大量のビール、庵の方々が免税店で購入したオールドパー、霧島、そして李慶が「地元では高級なお酒」と持ってきた江口醇。この江口醇は臭いがきつく、あの酒豪揃いの庵の方々でさえ、殆ど口にしていなかった。僕らは「エロジュン」と呼んでいた。なお、中国のお酒といえば紹興酒やマオタイが有名だが、実はそれらは高価ではあるがマイナーなお酒で、中国を代表するお酒ではないらしい。
 昼食後、大内さんを留守番に残して、八人で紅杉林の車の通る道路の終点まで降りてみることにした。そこはアピ山の懸垂氷河が望める観光地になっていて、一昨年は出店が出ており、唐辛子をまぶした肉やジャガイモの串焼きが売られていたので、皆、楽しみにしていた。三十分ほど、懐かしい道を下る。
今回、滅多に晴れ間を見せなかった牛心山


紅杉林の馬(Photo by Mr.Ishibashi)
ヤク(Photo by Mr.Ishibashi)


 紅杉林に着いて驚いた。壁のない長屋のような土産物屋が建っている。ただし、食べ物は売ってなかった。土産物屋の人に尋ねると、下の方でしか売ってないと言う。ここから六キロくらいあるという。諦めますか、という話をしていると、若者がやってきて、バイクに乗っていけ、と言う。往復で一人あたり20元(¥300)だという。ちょっとねぎって、乗せていって貰うことにした。一台のバイクに、ライダーと合わせて三人乗って、コンクリート舗装の道路を下っていく。

バイクの3人乗り(Photo by Mr.Ishibashi)
茶店(Photo by Mr.Ishibashi)

 私と須貝君は最後のバイクにまたがって、緩やかなカーブを下っていた。途中、地元の二人乗りのバイクが転倒していて、道路に血が滴り、一人はその場に転んでいて、もう一人は横の流れで傷口を洗っていた。これには私たちもびびってしまった。
 幾つめかのカーブに、テントが張ってあった。「ストップ! ストップ!」私たちはバイクを止めて貰った。「すみません、山野井さんのテントですか?」「そうですけど」
 そこにいたのは、プタラ峰を目指している山野井泰さん、牛心山の南陵に取り付いている山野井妙子さん・遠藤(渋谷)由佳さん・柏澄子さんの一行だった。泰さんは谷を遡り雪渓を詰めた所にベースを張って、3ピッチほど登ったが、雨で降りてきていた。妙子さん一行は牛心山の南陵から攻めていたが、あと3ピッチほど残した所でビバークして、やはり雨のため降りてきたとのこと。牛心山は、道路とは反対の北東側を大きく巻いて偵察もされていたので、頂上下のコルから3ピッチの懸垂下降で草付きまで下れることなど、下降路の状況もお聞きした。しかし8月の頭から入山されているのに、連日の雨で停滞を余儀なくされ、お互いに天候の異常さを嘆き合った。
牛心山の北西面。右のスカイラインの辺りが、「夏の雪豹ルート」
山野井さんの通訳(高玲さんの同級生)と

左から、柏さん、山野井妙子さん、遠藤(渋谷)由佳さん、長友、山野井泰史さん


 バイクの若者がせかすので、再び三人乗りで道路を下る。お茶屋のような所で手を振る先行メンバーを発見し、そこに上がっていく。何と、先日一時下山していた一行も、私の着く直前に庵の方々を発見して、合流していた。ヤクの肉やジャガイモのスープを食す。
 帰りも全員で山野井さんのテントを訪問。政府の要人がここを通るらしく、テントが目障りなので、目立たない所に移動させられていた。山野井パーティーの通訳の女の子は、一昨年の私たちの通訳の高玲さんや、後半通訳で来る予定の史(シ・チナ)さんの同級生だった。
 紅杉林でベースに帰る一行と別れ、長友、石橋で、「夏の雪豹ルート」の取り付きを確認に行く。トイレの横を下り、丸木橋の位置を確認し、それを渡って、谷筋のアプローチを確認してベースに戻った。取り付き地点は遙かガスの中に隠れて見えなかった。
ベースにて
付近のお花畑

2004/08/26(木)
 5時起き。明け方、星や月が出ていたりしたが、やはり上空はガスっている。雨が降ってないので、「夏の雪豹ルート」にアタックをかけることにした。「サポート隊を付ける」と有り難くも大内隊長がおっしゃってくれたので、長友、石橋、川合、吉村、鳥井、多田、室屋、須貝で、いったん紅杉林に下り、昨日確認したアプローチを登る。
紅杉林付近
紅杉林の車の終点

ちょっとした岩壁を木を伝って登ったり、シャクナゲの藪を分けたり。最後の水場で給水して、後は行者ニンニクの黄色く色づいた斜面を登る。周囲にガスが広がり、雲行きが怪しい。案の定、取り付きで雨に。長友、石橋、川合でロープを結び合い、濡れて冷たい岩に取り付く。足元も滑りやすく、ピンも1ピッチに1本くらいしか打ってないので、一昨年のフィックスに先行の長友はユマールを付けてリード。2ピッチ分を一気に。川合、石橋と登ってくる。終了点でひとまず握手を交わす。一昨年に残置した大内さんのアイスハンマーも残っていた。雨は依然として止みそうもなく、岩の冷たさに手の感覚も無くなっているので、一同、下山を決定。懸垂で一気に下降し、途中の小さな岩屋で行動食を採り、ベースに戻る。
急なアプローチを行く須貝、吉村、川合、石橋、室屋、多田、鳥井、各氏
最後の水場付近
中央が、夏の雪豹ルート
夏の雪豹ルート取り付き付近

1P目のフィックスを登る(Photo by Mr.Ishibashi)
2P目の終了点の川合、石橋両氏(Photo by Mr.Ishibashi)


2P目の終了点の長友(Photo by Mr.Ishibashi)
雄大な自然を背景に、さっさと下降(Photo by Mr.Ishibashi)



2004/08/27(金)
 庵鹿川の一行と吉田君は、天気が好転しそうもないので、一日早く下山。長塚さんは下山組だったが、大内さんの「最後までいても滞在費はあまり変わらないよ」の言葉で残ることに(日程を自由に変えられる立場がうらやましい)。私は居残り組だったが、パートナーがいないし、天気もよくないし、高度障害による睡眠不足も解消してないので、一緒に一旦下ることにした。
朝焼けの兎耳峰付近
尖山子のあたり

前半のメンバーとスタッフとポーター達(Photo by Mr.Ishibashi)


 紅杉林まで歩き、車でゲートまで30数キロ走る。そこからエージェントの車に乗り換え、日隆を経て、途中、四姑娘山が見えるという場所に。低い方から、大姑娘山、二姑娘山、三姑娘山、四姑娘山と連なっているが、最高峰の四姑娘山はガスがかかって見えなかった。
高度差1000m以上の岩峰、最後はすごいハングの老鷹岩
四姑娘山ビューポイント

 双橋溝のある小金県と隣の?川県の境は、巴朗山の4523mの峠である。エージェントの計らいで、峠部分は歩いて越えることに。ここに小屋掛けして(ビニールシートで覆っただけの造り。この高度で寝起きしてるらしい)、鶏肉の唐辛子をまぶした串焼きなどを売っていたりする。一番高いところにはチベット仏教の祠が祀ってあった。峠越えの車は、時々、カラフルなお札をばらまいて過ぎてゆく。吉田君は落ちていたお札の束をかき集めて、空中にばらまいていた。私も勧められて同じ事をする。峠を少し下ったところにとてもきれいなブルーポピーが群れ咲いていた。高い峠だけに下りも長く、途中でブレーキに水をかけて冷やしているトラックも見受けられた。
巴朗山の峠への登り
巴朗山の4523mの峠
焼き肉を売っていた
この高度で、簡素な小屋掛け
ブルーポピー
群生していた

 臥龍という町で昼食。その後、パンダ保護公園へ。子パンダが人工の木の上に山盛りで垂れていたりする。
巴朗山の峠からの下り
パンダ飼育センター

夕方、成都の大成賓館に投宿し、陳麻婆豆腐で夕食。ここは麻婆豆腐の発祥の地で、たしか陳建一の紹介によって日本でも麻婆豆腐が認知された、という曰わく付きの店だが、李慶は「有名だけどあまり美味しくない」と言っていた。まぁ、話の種に。久しぶりのシャワーとベッドは、とても心休まる。それまでの睡眠不足を取り戻すように、ぐっすりと眠れた。

2004/08/28(土)
 成都観光。史さん、高玲さんも交えて、三星堆(第二展示館のみ開館)、水餃子の店、お茶の店、中心街などの観光をする。→成都観光 参照。
 夜、バイキング方式の火鍋の店に。とても広くて、品数も多い。ただし味は今ひとつ。池田君がここで合流した。

2004/08/29(日)
 早朝、帰国組をホテルでお見送り。池田、長友は入山予定だったが、雨がひどくて途中の道路状況も悪いとのことで、焦ってもしょうがないので、もう一日滞在することに。
 この日も武侯祠、青羊宮、永稜、中心街の観光。→成都観光参照。
 夜、生田夫妻が到着。


後半へ続く|


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